南米留学放浪放言記

南米コロンビアのボゴタに留学する大学生が色々勝手にホザくブログ。

代わりゆく美しさについて

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遠い未来に、技術革新により、脳のデータを複製してアンドロイドとして生きることができるようになる可能性はゼロではないらしい。

 

"死"が失われれば、"生"の概念は希薄化する。

 

今、死から逃れることのできる者は誰一人として存在しない。

 

誰もが自分自身の、或いは身近な存在の死と向き合わなければならない。

 

しかし、もしアンドロイド技術が開発されれば、死は身近なものではなくなるかもしれない。

 

 

 

死は切なく悲しい、やりきれないものである。

 

しかし、生老病死に向き合うことは、人生の醍醐味であると私は考えている。

 

そうした機会が失われるのは、死の美しさ、別れの芸術性が失われるのは、いかがなものか。

 

例えば、"別れ"って、ドラマであり芸術であると私は思う。

 

故郷の家族や仲間との別れ、卒業式での同級生や教師との別れ、旅先の人々との別れ、旅行く友との別れ、遠くに住む恋人との長い別れ...。

 

SNSは遠くに行ってしまった人といつでも繋がること、容易に日常的にやり取りすることを可能にした。

 

それは凄いことだとは思うけど、その分、"別れ"の切なさや苦しみ、そこから生まれるドラマや芸術性が薄れてしまう。

 

そうして、その人の"その後"や"今"に思いを馳せること、そして長年の月日を経て再会したときの感動や有り難みなどが薄れてしまう。

 

 


技術進歩により、例えば新幹線が開発された。

 

大阪-東京間は今や2時間半で移動できる。

 

江戸時代はどうだっただろう。

 

何日間もかけて行き来していただろう。

 

その間に多くの出会いやドラマ、ハプニング、そして感動があったに違いない。

 

交通機関の発達により便利になった反面、そうした機会は失われた。

 

 

 

技術進歩により、例えばカメラが開発された。

 

どんな光景も、切り取って後で見ることができる。その場にいない人にも共有することができる。

 

便利な反面、目の前の存在そのものよりも写真を撮ることに集中する人が現れ始めた。

 

過去に実施されたとある実験によると、美術館で写真を撮りながら回る人とそうでない人とでは、作品の記憶に有意な差異が見られたそうだ。

 

言うまでもなく、撮影していた人は、あまり覚えていなかった。

 

写真を残すことばかりに夢中になるからだ。

 

目の前のものを堪能できずに、フィルター越しの世界に浸ってしまう。

 

写真はあとで振り返るものだ。

 

私も写真は好きだが、今この瞬間を堪能することを忘れるのは寂しいことだと、大きな損失だと感じる。

 

 

 

技術進歩により、例えばスマートフォンが開発された。

 

それ一つで、検索も通話も撮影も友人とのやり取りも、大抵のことはできるようになった。

 

しかし、一方でスマホに目を落としてばかりいる人が沢山現れ始めた。

 

例えば友人らとカラオケに行っても、歌っている一人以外は皆それぞれが自分のスマホを睨んでいるという事態も珍しくない。

 

電車に乗っても、大抵の人がスマホを弄っている。

 

 

 

技術進歩は世の中を便利にする。

 

しかし、同時に独特の美しさ、ドラマ、芸術が失われてしまう。

 

ただ、技術進歩によって新たなドラマが生まれてきたことも事実である。

 

例えば文字の発明は小説というドラマを生み出した。

 

例えばインターネットの発明はオンラインでの出会いというドラマを生み出した。

 

枚挙に暇がないが、兎にも角にも無数のドラマが自ずと生まれてきたはずだ。

 

これまでの美が、ドラマが、芸術が薄れ失われる代わりに、新たな美が、ドラマが、芸術が生まれてきた。

 

だから、もしもの世界かもしれないが、これからずっと先の世界で、生老病死の概念が希薄化したとしても、新たなドラマや感動が生まれるのかもしれない。

 

今の世界に慣れている我々には、到底受け容れることなどできないのかもしれないが。

 

(2017年7月に執筆)

 

 

 

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