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とある事件
あなたは中学三年生。
今日は年に一度の文化祭。
体育館での演劇発表が終了したあと、教室に戻るために大勢の生徒たちでひしめく窮屈な階段を歩いている。
すると、何やら後方が騒がしい。
振り返ってみると、階段の踊り場で数人の女子がクラスメイトの女子を怒鳴りつけながら髪を引っ張ったり蹴りを入れたりしている。
階段には溢れんばかりの生徒がいるのに、誰一人としてその歩みを止めようとはしない。
その後教室に戻ると、またしても四、五人の女子がその子を取り囲んで一方的に罵詈雑言を浴びせ、殴る蹴るなどの暴行を加えている。
どんな理由があるにせよ、暴力内容が明らかに度を超えている。
周りには生徒が30人以上いるが、誰も介入しようとはせず、ただ見ているだけ…。
これは私が中学三年生のときに実際に出くわした状況である。
「多数」による「少数」への一方的迫害。いわゆる"イジメ"。
似たような状況には他にも何度か遭遇したことがある。
この状況に置かれた場合、あなたはどう行動するだろう。
やめろよ、と言う?
動画を撮る?
戦闘力の高い友達を呼ぶ?
教師を呼ぶ?
身を呈して守る?
一人じゃ怖いから友達と止めに入る?
それともただ指をくわえて黙って見ている?
一番最後の人間が最も多い。
被害者が顔見知りであっても皆見ているだけなのだから、全く知らない人が被害に遭っていれば尚更だろう。
傍観者効果とは
傍観者効果の概要
傍観者効果とは、
ある事件に対して、自分以外に傍観者がいる時に率先して行動を起こさない集団心理。
見て見ぬ振りの事なかれ主義。
これは周囲に他の人が多いほど効果が高まる。
世代、文化、男女を問わず見られる。
集団心理の一つで、社会心理学における重要な概念。
キティ=ジェノウィーズ事件
この傍観者効果が提唱されるようになったキッカケは、1964年にアメリカで起こったキティ=ジェノウィーズ事件。
ある男が深夜に帰宅途中のジェノウィーズという女性をストーキングし、ナイスで刺すなどの暴行を加えては逃げ、ということを三度繰り返す。
助けを求める女性の叫び声を聞くなど、少なくとも38人の傍観者がいたにも関わらず、誰一人として助けようとはせず、その上警察に通報することすらなく、結果女性はなんとかアパートの前に辿りついたときにさらなる攻撃を加えられ、無残にも殺害された。何と不憫なことか。
衝撃的な動画
何年も前に、衝撃的な動画を観たことがある。
中国の都市の路上で、女性が男性にナイフで何度も刺されて血まみれになっているのに、誰も助けようとしないというもの。
警察が来てようやく攻撃は止むが、それまでの間、周りにきた人は通り過ぎるか立ち止まって見るばかり。
※この動画は、「鬼畜キチガイ中国人!若い女性をメッタ刺し」と検索すれば出てくる。(閲覧注意)
これを観たとき、非常に胸糞が悪くなると同時に、ただただショックであった。
被害者は見ず知らずの人間であるとはいえ、どうして周りの人間は傍観しているだけで何もしないのだろうか、と。
男はナイフを持っているとはいえ、後ろから跳び蹴りをかましたり、投石したりするくらいのことはできるのではないか、と。
大勢の通行人の中には、その状況に問題意識を抱いた者はいたはず。
しかし、彼女を助けるには、あまりに時間がかかりすぎた。
日常生活における例
傍観者効果は、何もこのような非日常的な事件だけに留まらず、日常生活において頻繁に見られるもの。
では、普段我々はどんなカタチで傍観者効果を発揮しているだろうか。
たとえば…
・路上で倒れている人への対応
・電車内での座席譲り
・電車内で居眠りしている人を、終点駅に着いても起こさない
→客数が少ない場合、起こしてくれる可能性は上がる。
・大人数グループLINEでの無反応
→少人数グループや個人LINEならスムーズな反応が期待されやすい。
・大人数授業で、教師が生徒に呼びかけた際の無反応
→少人数授業なら緩和される。
なにかしらの心当たりはあるはず。
傍観者効果の原因
一体なぜ、傍観者効果は生じるのか。
1)責任分散
他者と同調することで責任や非難が分散されると考える。
そのとき教室にいるのが加害者と被害者と自分だけであれば「この状況を何とかできるのは自分しかいない」と責任を感じることになりうる。
が、大勢いるとそうはなりにくい。
2)評価懸念
行動を起こしたとき、その結果に対して周囲からのネガティブな評価を恐れる。
加害者を止めさせようとして、加害者側の人間から敵と見なされる。新たなターゲットにされるなど。
3)多元的無知
他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考える。
誰も止めようとしないので、冷静に考えれば異常なことであっても、ノーマルの範疇と認識される。
傍観者でいいのか
一般的に、傍観者でいることの問題は、それによって不当な状況に陥る人を生み出してしまうことであるはずだが、それは当たり前すぎるので、ここでは、個人の在り方に焦点を当てて論じる。(←重要)
傍観者から脱することで生じるリスク
その状況に対して問題意識がなければオートで傍観者になる。
しかし、たとえ問題意識があっても、周囲からの目や下される評価を気にして、行動に踏み切れない人は多い。
それに、評価云々以上の深刻なリスクも生じうる。
先ほどの例で言うと、いじめられている人を助けようとした場合、自分が被害を受けたり、今後新たなターゲットにされたりといったリスクがある。
言うまでもなく、傍観者効果が発揮されうる状況において、積極的に何らかの行動に出るのは、多かれ少なかれ勇気の要ること。(最初に述べた事件のあと「止めたかったけど出来なかった」と呟く者たちは何人もいた)
傍観者でいることの問題点
とはいえ、一定以上の問題意識があるにも関わらず、信念に反して何もしなかった場合、あとでその傍観者に残るのは、後悔や罪悪感ばかりだろう。
それを一生引きずることだってあるかもしれない。
「傍観者であることを責めることはできない」と私は考える。
皆が問題意識を抱えているわけではないし、抱えていてもリスクが取れないことだって往々にしてある。
「トモダチごっこ」という漫画では、クラスのボス的存在にいじめられている子を救おうとした主人公は次のターゲットにされて自ら死を選んだが、同じようなケースは実際に起きている。
すべてに当事者意識や責任を感じていては埒が明かない。
一番問題なのは、一定以上の問題意識があるにも関わらず、自分の大切な価値観に反して傍観者に徹してしまい、あとになって後悔すること。
もしある局面において、一定以上の問題意識を感じるのであれば、少しでも姿勢を変えてみてはどうだろう。
傍観者をやめるときは
ただ信念を貫けばいいわけではない。
勇気のあることと無謀であることは異なる。
その状況に問題意識を感じていても、自分の信念を純粋に貫くことは、必ずしも良いとは思えない。
随分前のことだが「国家斉唱不起立問題」(卒業式等での国家斉唱の際、教職員も全員起立することが定められているが、政治的信念などから不起立の姿勢を取った教員たちが大勢処分された)が毎年話題になっていた時期があった。
信念を貫くのは「自分らしく生きる」ことを体現した、大切かつ素敵な行為だと思う。
しかし、信念はただ発揮すればいいわけでもない。
処分された退職直前の教職員たちの中には、退職金を貰えなくなった者や再雇用の機会を失ったもの大勢いた。老後の生活があるのに。
確かに社会に一石を投じることはできただろうが、本人たちにとっては甚だしい損失だ。
そうした抗議運動は何年も続いていたから、処分が相当厳しいものになることは知っていたはず。
「退職してしまってから、別のカタチで抗議運動を起こせばよかったのだ」
中学生の私は、ニュースを見る度にそう思った。
「信念はただガムシャラに発揮すればいいというものでもない」
「信念は貫きたいけれどリスクを取れない・取りたくない」のなら、冷静にリスクの低いやり方を模索すればいい。
リスクの低い積極的行動なら、いくらでもやり方がある。(最初の事例なら、教師を呼ぶ、仲間とともに抗議するなど)
もちろん、このようにリスクの大きいものは日常的ではない。
たとえば、座席を必要としている人への電車での席譲りなどは、リスクなんてほぼないだろうから、この項目を気にする必要はない。
傍観者にならないためのまとめ
以上を踏まえて、傍観者にならないためには、何が必要だろうか。
なお、あくまで傍観者になりたくない人がそうすればいいわけであって、問題意識を抱かないならばそれでいいと思っている。
まずは「当事者の気持ちを考える想像力」。
辛い経験をした人間ほど、同様の状況に置かれている人間を思いやることができる。
そして「傍観者効果を知ること」。
「あ、自分は今『傍観者』しているな」と自覚することで、いつもとは違った行動に繋げることができる。
そして、先ほど述べたように「自分の価値観や信念を曲げずに発揮すること」。
場合によってはリスク分散を考慮する。
参考:メンタルヘルス用語集