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質問箱に届いた「問い」に回答していくコーナー第二弾です。
質問箱に関してはコチラ→質問箱つくりました - 南米留学放浪放言記
さて、今回はこのような問いが寄せられました。
彼は日本の大学の友人です。
海外生まれで各地で長く住んでから帰国し、現在は交換留学でメルボルンにて色々チャレンジしている学生です。
「虐殺器官とは?」と思い調べてみたところ、2007年に刊行された日本の長編SF小説で、伊藤計劃という作家のデビュー作だそうです。
人体には虐殺を司る器官が存在する。言語表現によってその器官が活性化され、いわゆる『良心』と呼ばれるものの方向づけを捻じ曲げる。結果、残虐行為を働くようになる。
この設定が、物語に大きく関わってくるようです。
なお、作家は2年後に肺癌で34歳という若さで他界してしまったようですが、今もなお評価される作品とのこと。
また、AIESECとは国際的非営利学生団体で、学生を海外インターンに派遣するなどの活動をしています。
これらの情報からは回答の方向性が見つからなかったので、関係なく進めていきます。
さて、本題に入ります。
「人類が目指すべき理想社会」とは何か。
「人類が目指すべき」と「理想社会」をそれぞれ噛み砕いて理解した上で「人類が目指すべき理想社会」を定義づけ、必要と考える要素を説明していくというカタチをとります。
画像出典:http://kemono666.seesaa.net/article/257636926.html
人類が目指すものとは
ここで、「人類が目指すべき」というフレーズに注目します。
「目指すべき」とはつまり「ゴール」。
計算機のゴールは、計算を正確に円滑に実行する手助けをすることです。
滑り台のゴールは、玩具として滑らせてあげることで使用者を楽しませることです。
では、人類のゴールとは何なのでしょうか?
生物として目指すもの
人類の「生物としての」ゴールは、子孫を残すことです。
我々が今ここにいるのは、地球上に38億年前に誕生したとされる最初の生命体より続く、あまりに膨大な数の先祖たちがそれぞれ生き延びて子孫を残してきた結果です。
その1匹、1頭、1体、1人でも欠けていれば、我々はここに存在しないのです。
人類は社会というものを形成する複雑な生き物なので一見分かりにくいのですが、昆虫など色んな生物を見ていくと分かるように、子孫を残すことは生物の最大のミッションです。
中には、孵化したその日に交尾してすぐ死ぬ虫なんてのもいます。成虫としての寿命はたったの1日。まさに生むためだけに生まれてきたような存在。
「生物とは遺伝子の乗り物にすぎない」などという言説すらあります。
よって、「子孫を残しつづけること」つまり「持続性があること」が一つ目指されるものになってくると思います。
となると、環境に配慮せずに今を満喫することばかりして環境破壊を進行させることは、持続性を損なう行為であるため、正しくないことになります。
それ以外に人類が目指すもの
画像出典:https://ganref.jp/m/tenjou/portfolios/photo_detail/d04ee46c10f0bff097e94c976733baab
では「生物としての」という観点を離れたところには、人類のゴールというものは存在するのか。
私は、そこにゴールなんてないと思っています。
少なくとも、我々人類が認識できるものではない。
宇宙が始まった意味、この世界の意味、生命が存在する意味なんてものを、断定するための証拠なんてありません。
キリスト教の考えならば、神を愛すことがゴールということにでもなるのかもしれませんが、その考えが普遍的事実であることを示す証拠もまた、ありません。
そもそも先ほど説明した「生物としてのゴール」の先にある目的すら我々には分かりません。
もしかしたら、神のごとき存在の大いなる計画の一環である可能性だってあります。
しかし現状どうやっても分からない以上、そこに焦点を当てるのはナンセンスです。
人類全体におけるゴールがないー。
となると、よりマクロに見ていくのが妥当になります。
つまり、「個人」に焦点を当てます。
個人に焦点を当てるということは、個人の集まりによって形成され、かつ大きな影響力を持つ「社会」という存在に焦点を当てることにもなります。
理想社会とは
画像出典:http://www.kimoto-sbd.co.jp/downloads/2011/04/post-32.html
さて、次に「理想社会」という言葉を噛み砕いていきます。
まず、誰にとっての理想かというと、人類にとって、ということになりますが、一口に人類と言っても、色んな人がいますよね。
国籍、民族、文化、性別、年齢、職業など、様々なバックグラウンドがあり、個人レベルで理想のカタチがあります。
例えば、ある者は社会主義体制の確立された社会こそ理想と考え、ある者は敬虔なイスラム社会を理想とする。
これまでフランス革命やキューバ革命、倒幕運動など様々な革命が起きてきたわけですが、それは皆「彼らにとっての理想の社会や体制」を目指してのことなわけです。
誰にとっても「理想」と言えるような社会は存在しないというのが、当然ながら大前提です。
しかしここで「結局ヒトそれぞれだよね」とか「みんな違ってみんないい」という、相対主義的発想に落ち着いてしまうと、話がそこで終わってしまいます。
非建設的な、思考の停止ですね。
だから、もちろんここでは「私にとっての正義」を考えていきます。
「人類が目指すべき理想社会」の定義とはズバリ
ここでキーワードになってくるのは「幸福感」だと思います。
人類というものは、個人単位ではすべからく「自分の欲求を満たすため」つまり「自らの幸福のため」に生きていることは間違いありません。
自己犠牲すら「何かを護りたい」という自分の欲求があってこそ為せる技です。
まとめると「人類が目指すべき理想社会」とは
「個々人が幸せに、かつ持続的に生きるために目指すべき理想社会」
と言い換えることができます。
そして、この記事ではそれに関して私の意見を述べることになります。
さて、「持続的に」という部分に関しては既に述べたので、「個々人が幸せに生きる」という点に焦点を当てていきます。
まず、幸福の条件を考え、それを満たすにはどんな社会たるべきかということを考える必要があります。
また、ただ幸福であればそれでいいのか、というと、それは違うと考えます。
それについては後述します。
幸福の要件とは
さて、幸福の要件とは何か。
「自分らしく生きること」そして「明日への希望を抱けること」。
であると私は考えます。
どういうことか。
「自分らしさ」とは「大切な価値観やそれに基づいた行動」と言い換えることもでき、つまり「自分らしく生きる」には、「自分の大切な価値観を満たすこと」が重要になってきます。
自分のありたいカタチ、価値観が抑圧されて幸福を感じる人はまずいません。
誰もが自分の生きたいように生きたいのです。
「自分らしさ」は人それぞれですが、「愛」だとか「自由」だとか、ほとんどの人に共通するものはあります。
そういったものから導ける答えもあるので、後述していきます。
ちなみに「自分探しの旅」という言葉がありますが、それは「自分の大切な価値観に気付くための旅」と言い換えることができるでしょう。
そして、抽象的な話になりますが、多くの人が明日への希望を持ち、ワクワクできるというのは、幸福の重要な要件であることは間違いありません。
「生きたい」という気持ちがなければ、人は死を選ぶことさえあります。細胞は自己死(アポトーシス)することもありますが、生物としては不自然なカタチです。人間以外では、自殺する動物はほとんどいません。
これら「自分らしく生きること」と「明日への希望を抱けること」は、以下に述べていく項目が達成されれば、自ずと実現されると考えます。
定義付けなどで前置きが非常に長くなりましたが、ではいよいよ、「個々人が幸せに、かつ持続的に生きるために目指すべき理想社会」とは何かについて、具体的に考えていきたいと思います。
「人類が目指すべき理想社会」とは
基本的人権が保証され、生活の心配が不要な社会
先に「自分らしく」と述べましたが、「自分らしく生きる」には前提として「満足のいく生理的活動」や「心身ともに健康であること」も重要になってきます。
言論の自由、報道の自由、教育を受ける権利、社会権などなど、日本国憲法に定められたような人権が保証された社会です。時代が変わり、カバーされきれていない部分もあるとは思いますが、ベースとしては日本国憲法は一つの答えなのではないかと思います。
そして、食事や睡眠などの生理的活動を満足に行うことができ、紛争地帯のような命を脅かされた状態とは無縁の社会。
また、人々がお金に困らずに生活できる社会というのも一つ重要になってきます。
経済力が不足していれば、いつもお金のことばかり考えるようになってしまいます。
それは幸福とは言い難いでしょう。
権力が監視された社会
前項を達成するためには、権力の監視が重要になります。
人類は、権力を手にすると往々にして暴走する生き物です。
歴史を振り返ると、権力の暴走によって言論の自由などといった人権が弾圧されるというようなこともありました。
権力を持つ存在(政府や警察など)が透明化され、真に市民にとって意義のあることを実行するようしっかり監視できる社会は、理想社会の一つでしょう。
挑戦しやすい社会
幸せに生きる上で、「現状を変えるべく難題に立ち向かう」つまり「挑戦」は必要とは言い難いです。
平和な田舎町で仲間と楽しくのほほんと暮らすー。
敢えてリスクを冒して何かしようとしなくても、幸せに生きることはできます。
しかし、もしこれまで挑戦という行為が行われてきていなければ、社会はどうなっていたでしょうか。
人類の起源はアフリカと言われていますが、そもそもアフリカから出ることもなかったでしょう。
医学を学んで病原菌等の対処法を習得するという挑戦をする人がいなければ、多くの人類が死滅していたことでしょう。
農業に新たな技術を導入するという挑戦をする人がいなければ、人類は食糧危機に陥っていたかもしれません。
人々の挑戦という行為があったからこそ、社会は進展し、人類は生き延びてきたという側面があります。
皆が皆、挑戦する必要はありません。
しかし、挑戦する人がいなければ、社会は停滞・衰退していきます。
だから、挑戦する人がある程度いる社会は、理想社会の一つと言えます。
先ほど「ただ幸福であればいいというわけではない」などと書いたのはこういうことです。
日本でもアメリカでも、もちろん挑戦する人はいます。
一方で、例えば共産主義体制であるならば、挑戦する人はあまり現れないでしょう。
挑戦する人がある程度いる社会を作るには、挑戦しやすい土壌が必要になります。
挑戦しやすい土壌とは、失敗しやすい土壌とも言えるでしょう。
失敗してもまたやり直せる社会。
つまり、ライフラインが保証されている社会、のたれ死ぬことのない社会、そして、他者に寛容な社会です。
他者に寛容な社会
先の項の最後に「他者に寛容な社会」と述べました。
どういうことか、詳しく見ていきましょう。
日本は欧米先進国に比べれば比較的「不寛容な社会」なのではないかと感じます。
何か目立ったことをすれば叩こうとする人がいるのは恐らく世界中どこであってもそうですが、日本は特にその傾向が強いと言われます。
ほぼ単一民族国家であり、独自の文化が多く、島国気質で排他性が強めです。
個人よりも集団の中で横並びの協調性のある行動を取ることが美徳とされ、レールから外れた人は叩かれたりする。同調圧力は相当強いようです。飛び級制度もほとんどありません。(千葉大で近年実施したとのこと)
その結果、「自分らしく生きる」ことが阻害されているケースが多々あります。
例えば東南アジアのタイは、LGBTが生きやすい社会と言われていて、実際に街を歩くと女装した男性やニューハーフをよく見かけることができます。もちろん差別が全くないわけではありませんが、カミングアウトのしやすい社会であるのは間違いないでしょう。
また、以前「りゅうちぇる」と名乗るタレントがタトゥーを入れたことが話題となりましたが、犯罪でもないし利害関係があるわけでもないのに他人のタトゥーにとやかく言う人が目立ちました。
例えばイスラム圏もそうですね。
全てではありませんが、女性は肌を露出してはいけないだとか、男性と話してはいけないとか、厳しい規律がある社会があります。
世界の各国の男女間の不均衡を示す指標であるジェンダーギャップ指数は、イスラム圏は世界的に見てかなり低い。
サウジアラビアでは最近まで女性が運転免許を持つことはできませんでしたし、パキスタンで誰かと電話で喋った妹が兄に殺害されたり、イスラムの保守的な空気を打破するべく自撮り写真をネットにアップしていた妹が兄に殺害されたり、ヨルダンで家族の同意を得ずに結婚した姉妹2人が兄弟に殺害されたりといった悲惨な事件も起きています。
そして、そういった国は、主観的幸福度調査では軒並みポイントが低い。
もちろんイスラム圏ならではの良い点もありますし、宗教とは関係の薄い慣習に過ぎないという意見もあったりしますが、いずれにせよ抑圧を感じている人も多いのです。
もちろん、"自由の国"アメリカでも、日本であっても、人種差別や性的差別はあります。
誰しもが同調圧力や根拠のない偏見などによって理不尽に差別・迫害されることのない「他者への寛容さが実現された社会」は、人類が目指すべき社会であると言えます。
努力する者が報われる社会
「格差」というと「平等」の反意語の一つとして、悪いイメージで語られがちですが、自然界に目を向ければこれ当然の話。
猿の集団でもライオンの集団でも、主に肉体的に強い者が生き残る。
格差はあって当然です。
格差を否定するのなら、努力をも否定することになる。
問題なのは、理不尽な格差。
能力は同じなのに、人種や性別で差別される。
これは理不尽、つまり、あってはいけないことです。
先に述べたように、個々が納得できず不幸になりますし、社会の損失にもなります。(どう「社会の損失」になるのかについては次の項で説明)
共産主義体制が理想社会として語られることもありますが、これはそもそも「生物の肌に合っていない」と言わざるを得ません。
機会格差の小さい社会
機会格差とは、得られる機会の格差のことを指します。
学歴にせよ経済力にせよ身体能力にせよ容姿にせよ、スタートラインは人によって大きくことなることは自明です。
この文脈において、平等などというものは存在しません。幻想です。
例えば東大生の半分は世帯年収約1000万以上の家庭の子供であることからも、家庭の文化的背景(ゲームを与えるか本を与えるかなど)、かけられる教育費など、家庭状況によって、有利不利はあるわけです。
ハーバード大生も然りで、ハーバード大卒の親を持つ子供の割合がかなり多い。
優秀で意思があってもお金がないから大学で勉強できないだとか、仕事はできるのに学歴が低いから、あるいは人種などが絡んで採用されないなどというケースだってあります。
しかし、本人の意思以外の点で何かを諦めることになることのないような社会、経済的問題などの外部要因によって挑戦することすらできない社会は、幸福感を欠きます。
なぜなら、自己決定や納得感は、幸福感を決定づける大きな要因であるからです。
外部要因に阻害される現実を納得できるのなら関係ないかもしれませんが、通常そういうことにはならないはずです。
また、社会的損失をも招きます。
本来なら社会で活躍できる人材が、機会格差によってそもそも活躍の場を得られないという状況が起こりうるからです。
どんな損失かというと、例えば、その人ができたはずの仕事で救われたであろう人は救われませんし、国家の税収入だって下がります。
だから、能力や意思があれば機会を得ることが難しくない社会というのは一つの理想社会と言えます。
経済面に関しては、例えばドイツなどは大学の学費が無料だったりしますが、他にも給付型奨学金の拡充など、様々な措置が考えられます。
もちろん、意思がどれだけ強くて挑戦する機会があったとしても、実現できないことはたくさんあります。(例:プロ野球選手になる)
こればっかりは仕方ない。才能も運も重要です。
機会格差は何も、経済面や学歴面だけで語れるものではありません。
特に現代において、そして今後においても然りですが、「機会格差がない社会」とは、「情報格差・情報リテラシー格差がない社会」と言い換えることもできます。
例えば日本では、今ではインターネットを通して色んな情報を得られますが、依然として地域によって格差はあります。
私が高校生の頃は、もちろんインターネットは使っていましたが、田舎の一青年に見えていた選択肢の広さは、東京二十三区在住の高校生に劣っていたと思います。
先ほど、自己決定や納得感は幸福感に影響をもたらすと話しました。
本来あったはずの選択肢を知らずにあとになって後悔するというのは「人生あるある」です。
そんなことになるべくならないように、情報リテラシーの底上げをし、情報格差を減らすことが、人類全体の幸福感、人生への納得度に繋がるでしょう。
これは教育が鍵を握ります。
世界の広さ、選択肢の広さを教え込むという点により重点を置くことが一つ重要になるでしょう。
もちろん、選択肢が多いほど納得感が下がる、つまり幸福度が下がるという研究もあり、それは事実だとは思いますが、見えるものを見ないフリをするのは難しいことです。
評価基準が多く、能力開発に優れた社会
学校現場における学校側から見た正義とは何か。
「勉強ができる」「スポーツができる」が代表格でしょう。
合格実績や大会実績は、学校の広告塔としての機能を果たし、ブランドを強化します。
一方で、「絵を描くのが上手い」だとか「デザインのセンスがある」だとかは評価されにくい。
また、東大入試で「英語で20点/120点、数学で120点/120点」よりも、「国語で80点、数学で80点」の方が試験では評価されます。
評価基準が合計点だからです。
しかし、例えば数学がずば抜けてできるのなら、その能力をさらに活かすような方向に開発していくことが、本人にとっても社会にとっても価値のあることであると思います。
他に才能があるのに、勉強やスポーツだけで評価されるのであれば、能力はなかなか開発されません。宝の持ち腐れになります。
アメリカでは天才に特化した教育がありますが、それは良い例でしょう。もちろん弊害もあるので、そこは慎重に手を打つ必要がありますが。
「やりたい」「得意である」「必要とされている」という三つの要素を満たせば満たすほど、それを行う当人は幸せになります。
何かしら才能があれば、その個性を伸ばす、つまり能力を開発するようなオプションがもっと身近にあっていいと思います。
柔軟な姿勢、個々にあった能力開発が実行される社会は、一つの理想社会でしょう。
子供を安心して産み育てられる社会
これは現在の日本社会にちなんでの話になります。
保育園の待機児童問題が話題になりましたが、そのような状況では、子供を産むことに対して不安を覚えてしまい、少子化に歯止めがきかなくなります。
出産後の職場復帰のハードルを下げるなど、有効な政策を打ち出す必要があることは自明です。
今後、AIの発達に伴うさらなる機械化により、人による労働の総量は今後先進国を先頭に減ってくると思われます。
「なら、新しい労働力は要らないじゃないか」ということになりますが、高齢人口比率の高い社会は活気に欠けるのではないかと思います。
もちろん、元気な老人が増えつつあるはずですが、平均値を見れば気力も体力も思考力も発想力も、若者には敵わないのではないでしょうか。
社会を活気づけ、新しい風を吹かせる存在、つまり若者の多い社会は、理想の社会の一つなのではないかと思います。
余談ですが、労働の総量が減った社会では富はどこに流れるのかというと、やはり頭を使って働く人間、仕組みを作る側の人間になると思います。
生産力の向上によってライフラインの底上げはされる一方、経済力の二極化が進むのではないかと思います。
人と人とが繋がりやすい社会
人は、社会的動物です。
コミュニケーション能力が高く、言語を用いて互いに理解し合うことができる。
幸福度の大きな決定要因として、愛や友情などの人間関係があります。
孤独死する老人がいます。
多かれ少なかれ、誰もが孤独を避けたいものです。
中南米で過ごしていると、人と人の垣根が浅く、距離が比較的近いと感じます。
家族の絆が強く、ハグや言葉で、頻繁に愛情表現します。
エレベーターで乗り合わせれば挨拶をしたり、列に並んでいるときにその場にいた人と会話が始まったりするということがよくあります。
様々な国際世論調査で明らかになっていますが、中南米諸国の主観的幸福度や生活満足度はどこも高い。コロンビアやメキシコはトップクラスです。(統計に疑ってかかるべき箇所はありますが)
そこには、遺伝的要因を含む、様々な要因があることは間違いないでしょう。
しかし、中でも、そのような人と人が簡単に関係を築きやすいという状況によるものは大きいのではないかと考えています。
このように、オープンに人間関係を築きやすい社会というのは、理想社会の一つでしょう。
まとめ
さて、今回私は「人類が目指すべき理想社会」を「個々人が幸せに、かつ持続的に生きるために目指すべき理想社会」と解釈し、必要だと考える要素を提示しました。
基本的人権が保証され、生活の心配が不要な社会
権力が監視された社会
挑戦しやすい社会
他者に寛容な社会
努力する者が報われる社会
機会格差の小さい社会
評価基準が多く、能力開発に優れた社会
子供を安心して産み育てられる社会
人と人とが繋がりやすい社会
他にも考えればいくらでも要素が出てきそうですが、長くなりすぎるのでひとまずこれくらいにしておきます。
これを受けて、あるいは受けずとも、皆さんの意見はいかなるものなのか、また良かったら教えてください。
画像出典:https://jacquelinemhadel.com/2012/11/19/new-guache/
さて、今回の「問い」のように、現在「質問箱」を通して様々な「問い」を受け付けております。
カジュアルなものから哲学的な問いまで、何でも歓迎です。
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質問箱企画に関して書いたブログ記事はコチラ。
2018.09.11
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