南米留学放浪放言記

南米コロンビアのボゴタに留学する大学生が色々勝手にホザくブログ。

差別が生じる根本的な理由とは結局のところ何なのか

 

 

異人種排斥、異民族排斥、異教徒排斥。

 

世界は古来より差別と偏見で溢れている。

 

誰もがそれらと無縁でいることはできない。

 

認識していなかろうが、多かれ少なかれ誰もが、誰かから強引で息苦しい何かで括られ、或いは同一視され、偏見の目で見られている。

 

同時に、多かれ少なかれ誰もが、それと同じように誰かを見ている。

 

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なお、この文章における「差別」とは、ブリタニカ国際大百科事典に定義されているように、

 

特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為

 

のことを指している。

 

 

「これは差別ではない。区別だ」などと言って弁明しようとするケースも見られる。

が、少なくとも、もし整合性の取れない利己的で理不尽な理由で他者を侵害するものであるならば、それは差別である。

 

日本は他の国と比べれば、人種差別や異教徒差別が少ないと思われる。

しかし、性差別、障害者差別、職業差別などは依然として日常性を帯びている。

 

学校や職場でのイジメも、差別が絡んだものは数知れない。

また日本では、近年はあまり話題に上らないが、嘗ては部落差別のような出生差別も大きな影響を及ぼしていた。

 

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たとえ合理的な理由がなくとも、周りが差別しているから同調して、或いは誰かの言説を盲目的に信じるなどして、なんとなく差別することになることも多い。

というかこれが大半なのではないかとさえ思う。

 

また、一部を見て全体を論じ、差別する者は非常に多い。

〇〇人が犯罪をしたから〇〇人は全員悪だ、などという短絡的な思考に走る低知能な人々は沢山いる。

言うまでもなく、そういう主張は、「私はアホです」と言っているようなものだ。 

 

なお、偏見や差別感情は、一度身に付くと簡単にはなくならない。

特に大人の場合、偏見を振り払うのは困難である。

 

 

 

差別が生じる理由


さて、差別はなぜ生じるのであろうか。

まず、差別に対する私の考えを一言で表現する。

 

差別とは「安心感を得るための行為」である。

 

そして、差別の発生とは極めて自然な現象である。

 

差別が生じる理由は3つある。

 

無論、もっとあるに違いないが、パッと思い付いたものが3つだけだったので、3つ書く。

 

 

差別が生じる理由その1

「帰属集団の連帯感を強めることになるから」


差別対象の「外的存在」を作り出すことで、相対的に自分たちの立場を高める。

同時に、それを意識することで帰属集団内の連帯感が高まり、帰属が明確になる。

共通の敵がいれば、集団は結束するものである。差別ではないが薩長同盟などの例がある。

人間には帰属欲求というものがあり、こうすることで安心感を強めることができる。

 

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差別が生じる理由その2

「優位性を実感したいから」


差別対象を作り出すことで、自分の"下"を創り出すことができる。

江戸時代の穢多・非人は、抑圧された身分である百姓たちの不満を幕政から逸らすために為政者がスケープゴートとして用意したと言われている。

人は、自分の下に人がいれば安心する。

その安心感を生み出すために、人は差別を繰り返すのである。

 

 

差別が生じる理由その3

「類は友を呼ぶから」


人は同質の存在に対して安心感を抱くのである。

逆に、異なる存在に対しては恐れを抱き、警戒し、避けようとするのである。

 

学習や経験を積むうちに、徐々に恐れは薄れていくものであるが、やはり根源的には同質の存在に囲まれている方が安定感/安心感がある。これを"ぬるま湯"と表現することも文脈によっては可能だ。

 

 

 

差別とは自然現象

 

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差別とは、極めて自然な現象と言えるだろう。

 

例えば、部屋を一つの細胞と捉えるならば、掃除とはホメオスタシス的行為(恒常性を守るための行為)ということになる。

 

生物のカラダ一つに着目しても、入り込んできた異物(ex.ウイルス)を排除(ex.白血球)し、不要物を掃き出す(ex.垢や糞尿)ことで、機能的で整然たる状態を維持するようにできている。

 

人間が、自分と異なる存在を遠ざけようとするのは、これらを見ても自然な行為であることが分かるだろう。生物とは、細胞レベルでそういうものだ。

 

 

 

 

差別とどう向き合うか

 

 

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共通点が多く、親和性の高いものを好む傾向は、基本的に全動物共通である。

 

だからといって恒常性を守るために他を排斥するのは正義か否か、というのは難しい問題だ。

 

じゃあ、自然現象だからといって、「差別に疑問を持たなくていいのか?」と聞かれれば、私は「NO」と答えるだろう。

 

例えば動物同士なら、敵と見なせば容赦なく排斥しようとするだろう。

 

しかし、人間と他の動物との大きな違い、"高度な思考能力"と"理性"に注目すれば、反応の仕方に違いがあって然るべきだと感じる。

 

 

異文化にせよ何にせよ、避けられない害が発生しない限りは共存はできる。

もちろん、必ずしも積極的に関わる必要はない。

「合う・合わない」は、個人レベルで発生する自然な現象なのだから。

 

 

なお、似た者同士だと些細な違いが気になるものだが、もし宇宙人が来襲したら、白も黒も黄も、キリスト教もイスラム教も些細な違いになり、結束できるだろう。

 

 

(2016年頃執筆を一部編集)

 

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